悪魔の薬…リスパダール
今現在、リスパダールを1日1ミリ、6回服用しています。
このお薬は、統合失調症の人に使われるものです。
私の病名は「心因反応」。
統合失調症とほぼ同じです。
幻覚、幻聴、心臓がカタカタと震える感じがします。
リスパダールはほぼ、私にとっては麻薬に近いです。
このお薬を飲むと、完全にではありませんが、少しだけ落ち着きます。
以下は、お薬110番からの引用です。↓
「このお薬は、そのような脳内の情報伝達系の混乱を改善します。
おもな作用は、ドーパミンとセロトニンという2つの神経伝達物質をおさえることです。
2つをおさえることで、統合失調症の陽性症状(幻覚、妄想、興奮)と陰性症状(無感情、意欲低下、自閉)の両方によい効果を発揮します。」
100パーセント、以上の状態を抑え込めたらいいのですが、そうそう上手くはいきません。
む、難しい…
手首にカミソリの刃をあててみる。
私は不安にかられると、手首にカミソリの刃をそっとあててみます。
そして、一気に縦に刃を流します。
そうすると、少しだけ、ほっとします。
血は出ないけれども。
昔からそんな感じで、カミソリの刃を手首にあててみるのです。
壁に頭をドンドンとぶつけてみたこともありました。
手や指が痒いところをかきむしって、血が出るほど、かいてみることもあります。
血が出ると少しだけホッとするのです。
なんだか、自分の汚い部分が無くなってくるような感じがして。
自傷行為の一歩手前なんだと思います。
多分。
子供の頃の記憶 その2
小学3年生だった頃の事でしょうか。
急激に家のお金が廻らなくなりました。
まず、お風呂を焚く石炭が買えなくなりました。
当時、私の髪は腰程の長さがあったのですが、お風呂に入れないと、当然ですが、髪の毛も洗えません。
私は意地になって、お湯を薬缶で沸かして、頭を洗いました。
それから、怖い人達がお金の取り立てにやってきました。
どうやってきたのかというと、まず、父を呼ぶように、言われました。
2人組みで来たと思います。
母は慌てて、頭にタオルを巻いて「今、お風呂から上がった」風を装いました。
「父の靴を隠しなさい」って言われました。
私は父の靴を慌てて隠しました。
そこからの記憶が殆どありません。
記憶が「飛んでいる」状態です。
1か月程経ったある日「おばあちゃん家に行くから支度しなさい」って言われました。
私は嫌な予感がしました。
父も一緒かと聞くと、嫌、そうじゃない、って答えました。
私は弟の靴を用意しました。
弟は当時、まだ3才ぐらいだったと思います。
朝方、駅のホームに列車が突入して来たと同時にホームに私達親子は滑り込みました。
弟のおもちゃがホームに転がったけれども、母は「そんなもの、あとでいいから!」と怒鳴りました。
祖母の家では、私達親子は、狭い肩身の思いをすることになります。
「お客さんじゃないから、裏口から入んな!」と祖母は母のように、怒鳴りました。
正直、祖母の家の裏口は、暗くて臭くて、大嫌いでした。
だから、私は意地になって、正面玄関に自分の靴を置きました。
その靴が、裏口に置かれても、置かれても、私はその度に、玄関に靴を置きました。
それが大体、夏休み一杯の期間だったと思います。
家に帰ってみると、私の家はもぬけの殻でした。
居間に転がっていたのは、一枚のお皿と、玄関から蜜を求めて群がっていたアリだけでした。
父は夜逃げをしたのか、家にはいませんでした。
後から聞いてみたら、何と、お金を共同で借りていて、父が保証人にもなっていた人が逃げたとの事で、怖い人達は案の定、ヤクザだったのです。
2番目の妹は、当時、養父母の家に住んでおり、この事は知りません。
また、一生、知らなくてもいい事だと思っています。
ただ、死ぬまで、この事は私のトラウマになるでしょう。
子供の頃の記憶 その1
私の子供の頃の記憶です。
一番小さい頃の時の記憶ですが、5才ぐらいの時に、1人で外をぼーっと眺めていました。
その当時、友人は誰一人としていなかった記憶があります。
私は母に「あのトラックには、何て文字が書いてあるの?」と言っていました。
私の記憶している限りでは、絵本を読んでもらったことがありません。
文字はどうやって覚えたかというと、小学生になるまで、本という本は読ませてもらっていませんでした。
だから、小学生になる頃には、活字に飢えていました。
私は貪るように、図書館へ通って、本を読みました。
父の事業の失敗で貧乏だった我が家では、本が安易に買えませんでした。
だから、私は学校の図書館へ必死になって通って、本を沢山借りた人に贈られる図書券に期待をしていました。
その図書券で色々な本を書いました。
特に私が好きだったのは、物事を調べることが出来るシリーズの本でした。
本の世界の中に入ると、私は、様々な怒りや悲しみから解き放たれることが出来ました。
私はますます本の世界へ飛び込みました。
そうすると、夜中まで必然的に読むことになり、あっという間に目が悪くなりました。
私はそれでも一向に構いませんでした。
「本さえ読むことが出来れば」
それに私は拘っていました。
中学生になり、私は作文を書くことが好きになりました。
今のように、気軽にこんな風に文章を書くことが出来ない時代でした。
私は必死になって、文章を紙に書き起こしました。
その文章は、必然的に、とある賞をとることになり、お金が貰えることになりました。
母は私が載っている新聞を眩しそうに、誰彼なく見せまくりました。
そこには、微笑ましい母はおらず、ただ単に自分の娘が賞をとることが出来た、ただ、それだけを喜んでいるようでした。
そんな最中、私は反抗期に突入しました。
特に嫌だったのは、男性全般でした。
担任だったM先生も嫌になりました。
三者面談の日、私は泣きながら、先生の話を聞いていたのを覚えています。
次に、小学生の頃経験した夜逃げの話をしたいと思います。
逝ってくれないかな。。。
私の父は、5年程前に高所から落下して、私が住んでいる隣町に入院しています。
脳挫傷を起こして、救急車で市内の市立病院に運ばれました。
私がそれを知ったのは、母からの電話です。
その当時、私はまだ仕事をしておらず、家にいました。
私は、それを知って、すぐに病院へ飛んでいきましたが、すでに救急措置は行われたあとで、父は眠ったまま、ICUへ運ばれていきました。
そこから2週間ほどそこで過ごして、1年程市立病院で入院していましたが、突然「出て行って欲しい」と看護師さんから告げられました。
もう、する処置が無いからだと。
確かに父は完全看護状態になって、腸ろうもしてます。
24時間の看護状態で、病院も手に余ったのでしょう。
父は隣町の病院に入院しました。
ですが、入院費の滞納を私は知ってしまいました。
去年、その病院の受付の人達が家にやってきたのです。
私は母に無理矢理聞きました。
すると、母は言いづらそうに、私に言いました。
50万円程滞納しているのだと。
私は愕然としたと共に、いつもいつも「滞納していないよね?」って聞いていたけれども、真実を言ってくれていないことに、呆然としました。
父には申し訳ないけれども、もう、限界です。
子供の頃から精神的虐待を受けていたので、父には申し訳ないんだけれども、愛情というものが殆ど無いのです。
だから。
ここで、言ってしまいます。
「早く、逝ってくれないかな」と。